持病の喘息の思い出を振り返る話
みなさんこんにちは!安藤凪羽です(@ando_nagiha)
今日は持病の喘息に関して書こうと思ってます。
私は正確には覚えてはいませんが、幼稚園に入る前から重度の小児喘息で、毎日辛い発作で夜も眠れない生活をしていました。
小児喘息は成長するにつれて体力が付き、徐々に症状が軽くなっていくと言われていましたが、どうやら私の喘息は症状が酷すぎて全く軽減している気がしなかったのを覚えています。
今でも喘息の発作関連で記憶に残っているエピソードがいくつかあります。
一つ目は小学校二年生の時です。
当時の私の自宅は小学校の道路を挟んで向かいに住んでいて、学校までの時間は徒歩1分以内でした。
しかし、途中で喘息の発作が起こり昇降口前で動けなくなってしまいました。
投稿する時間が遅かったので周囲には誰もいませんでしたが、幸いな事に校長先生が朝の散歩をしていて、動けなくなっている私を偶然発見し、そのまま保健室に連れて行ってくれました。
今考えると、あの時校長先生が見つけてくれなかったらどうなっていたか、想像すると恐ろしいです。
次に周囲との感覚の差でした。
子供の基準と言うのはどうしても自分本意なものです。
私は喘息が酷過ぎて、常に多少の喘息特有のヒューヒューと言った呼吸音がしていました。
ひどい時は少し離れた位置からでも呼吸音が聞こえる程でした。
また、私の中では呼吸音が周囲に聞こえるレベルの発作でも、会話が出来ていれば辛く無いと思っていました。
本当にひどい時は一切息が吸えないので、発狂に近いような声を上げて、声を出した反動で少し息が吸えるレベルでした。
なので普段は全然ましだと思っていたのです。
しかし、私はそれが喘息の症状として普通な事なのだと思っていたのです。
なので同じクラスの子が喘息が辛いと保健室に行く時などに、自分はその程度の何が辛いのか理解が出来なかったのをよく覚えています。
まだ当時の小学校の保健室の先生に
『凪羽君に会ってから喘息の概念が変わった』
と言われました。
その先生曰く、保健室に来る喘息の子は部屋の椅子に座らせて、背中に耳を当てて判断していたそうなのですが、私の場合は保健室に入って来た段階で呼吸音が聞こえるからびっくりしたそうです。
また当時通っていた大学病院の主治医の先生が診察の時に、実習に来ていた研修医に
『その子の呼吸音は凄いから聞かせてもらいな』
と言って半分教材にされていたのをよく覚えています。
また、主治医の先生に
『もし、普段の状態の君を知らずに初めて診察したら、間違いなく入院させているよ』とも言われました。
そうやって周囲からの指摘を受けて自分は特殊なんだなぁと実感していきました。
そんな幼少期を過ごして来た私ですが、残念ながら成人した現在も喘息は治っていません。
小児喘息と言われていた私の症状は、気管支喘息にいつのまにか変わっていました。
成長した事によって多少発作の頻度や症状の酷さは軽くなっては居ますが、今も相変わらず激しい運動や低気圧などで、呼吸音が聞こえるレベルの発作が起きます。
ただし、私は持病の喘息に関して特に悲観した事はほとんどなく、学生の頃は授業をサボりやすいし良いなー程度に思っていました。
残念ながら病気は自分の意志とは関係なく、自分に降りかかってくる事が多く有ります。
しかし、私は病気は『身長が少し低い』『勉強が苦手』程度の個性なんだと思っています。
人それぞれにマイナスな点は必ず有ると思うので、これからも上手いこと付き合って行けたらなーと思っています。
ここまで、ダラダラと自分の症状について書いて来ました。
特に何かを意識して書いた文章では無いですが、もし同じように喘息で辛い思いをしてる人がいて、仲間が居るんだなぁーとか何かプラスな気持ちになって貰えれば良いなと思います。
では、ここまで読んで頂いてありがとうございました。